今年の夏のバカンスの締めくくりはパリで聴くベルリンフィルでした。
指揮はサイモン・ラトルでプログラムはモーツァルトのシンフォニー 39番、40番、41番(ジュピター)。このプログラムは今年のザルツブルグ音楽祭でも同じ演者で演奏されていました。実は当初、ザルツブルグ音楽祭+イタリアアルプスというプランも検討していましたが、ドロミテからザルツブルグへの移動に自信が持てなかったので諦めてしまいました。旅程をパリ+ピレネーに決定し、パリでの過ごし方を練っていた時、webでこの日のプログラムを見つけたのです。実際にパリの地下鉄でこの日の公演のポスターを見つけた時は感慨深いものがありました。まだ若く肥大化した自我を持て余し、挫折し、何も手に入れられない自分に苛立っていた頃はこんな風に人生を楽しむことは考えられなかったからです。
この日のコンサート会場はパリのSalle Pleyelです。Pleyelのピアノはショパンが愛用したことで有名なようです。ホールの内装は改装されたばかりでとても綺麗でした。チケットはwebで購入し、プリントして持参というスタイルです。前から3列目中央やや右で指揮者とコンサートマスターの表情がよくわかる席でした。
開演予定の10分前になり、開演を知らせるベルが少しずつ大きくなりまた小さくなりを繰り返し始めます。こんなところもとても音楽的です。ただ、この時点でも客席は半分ほどしか埋まっておらず、もしかしてパリジャンはベルリンフィルが嫌い(仏独は歴史的なものもあるし)なのかと思いましたが、やがて席はすべて埋まっていました。コントラバスの3人は早々にステージに現れ、小さな音で速いパッセージを繰り返し合わせていました。なかなか納得がいかない様子です。
そして、拍手の中メンバーが次々に登場します。コンサートマスターを除く全員が着席すると今までより拍手が大きくなり、黒髪のヴァイオリニストが登場しました。なんと今日のコンサートマスターは日本人の樫本大進さんでした。颯爽と登場し、チューニングの合図を出します。この音を聴くといよいよ始まるという思いが高まります。少し間を置いて指揮のサイモン・ラトルが登場しました。決して大柄でもなく、少し猫背気味なのになぜか迫力を感じます。この日のラトルは指揮棒を使わず、素手で指揮していました。指揮棒が無いと演奏しづらいのではないかと思うのですが、その分演奏する方もより集中するのかもしれません。プログラム的に決して大編成ではないので不思議なことでもないのでしょう。
第39番
ともて端整で典雅なモーツアルトらしい演奏。
第40番
第3楽章はしびれるほど綺麗で静かなアンサンブル
第4楽章はプログラム前半のラストに相応しい盛り上がりを見せるがまだ全開ではないかな。
20分ほど休憩
第41番
いよいよエンジン全開。オケも指揮者もものすごい集中力です。
第4楽章のフーガが織り成す極上の響きの空間は異次元の世界です。
この時間が永遠に続いてほしいと願いました。
しかし、演奏は永遠には続かないのです。楽譜通りに演奏は進みエンディングを迎えました。割れんばかりの拍手がホールを包みます。
ホテルへの帰り道、私と同じ歳くらいのドイツ人夫婦が手を繋いで歩きながら今夜のコンサートの感想を興奮気味に話している様子です。彼女がジュピターの終楽章のテーマ(ドレファミ「ジュピター音型」)を口ずさむのを聞いて私はハッとしました。これはJ.S.Bachの平均律第2巻ホ長調のフーガと同じです。こんなに有名な曲同士にこんな共通点があることに初めて気づきました。
ルルドから始まった今回の旅はパリのモーツァルトで大団円を迎えました。ヨーロッパという世界観を見極めたいというのが今年のテーマでしたが、2月のチェコとウィーンへの旅、そしてこの夏のルルドとパリへの旅を通して、地理的な広がりと時間的な奥行をもつヨーロッパが見えてきました。音楽とキリスト教が結びつき、模倣と変形を繰り返しながら今日まで続いていることを実感したのです。この迷宮のような音楽の森はまだまだたくさんの秘密を隠しているようです。





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